短期連載「NFパンチの収録でサカナ一郎さんと鹿野さんとみんなで議論してきた」エピソード1
テーマ「フェス多すぎない?」
※この記事は、具体的な内容は放送見てもらうとして思ったことだけ書いてくことにしようと思ってます。しかし、放送やMUSICA紙面に載ってる範囲を超えて書いてる場合があります。
ツイッター上の実況コメントから「これは言ったろうなー」ってところと、あとMUSICA参照にしつつ書いてますがスペシャでの放送は録画してもらってまだ見てないです。カットしてたことをうっかり書いてたらすみません。何か問題ありましたら連絡ください
「フェス多すぎない?」
・フェス、増えつつあるけど動員や利益は(業界規模で見ても)減ってない
・ビバラだと六万人の動員に対して(交通、宿泊等々合わせて)44億くらいの経済効果。
○この経済効果って基本フェス主催者の懐だけでなく交通機関とか近隣の店にチャリンチャリンされた額ってことで。
ある意味、主要とかにフェスができ出したのはこの辺り見て地方担当のイベンターやプロモーターが企みだしたのかなー、なんて思ったり思わなかったり
○あと、結局フェスって春のGW、夏休み、冬休み以外だとそもそも休み取れなかったらするよねって話。
これが今までは「フェスどこでやってもメンツ同じだね」って問題が出てて、話も最初はそっちで進むのかなって思ったけど、よくよく考えたら最近は2月とか11月とかにもフェスが出てきて、「フェス中心にバンド活動が動く」とか「大きなキャパで演奏すること前提の音楽性になって行く」って問題に変わってきた感あるなってパネラーの方々の話を聞いて思いました。
それを踏まえて次の意見を
・フェスが、ビジネス的にもリスナーもとい参加者のマインド的にもレジャー化している。ビジネスモデルともなっている。
逆に文化を醸成するような場が、金目当ての人が参入することで力を取られたらどうしようと思う。
・芸人の場合、お笑いのショーレースなのような存在を認知される機構があるが、バンドにはそれがない。
・ライジングサン、20分くらいの曲やった時にブーイング起きた(タイコクラブでは大評判だった)そっからフェスを意識した選曲をするようになった
→バンドマン仲間からは「よくやった!」と言われた。スタッフからも絶賛された。
→フェスやライブのスタッフは何年もやってる人が多いし、そこから褒められると嬉しい
・フェスでアガることが一義的になる
→それができない素晴らしいバンドの行く末は
→盛り上がってる人が、いつかフェスに行かなくなる。そうなったらどうなるのか
○そもそもの意見として、僕はかつて音楽業界におけるリスナーの蛸壺化について色々考えたことがあるんですけども、要は「結局、どこまでいってもリスナーにとっての音楽は"誰かと繋がる"手段でしかない」「結局音楽はBGM」ってことなんですよね。
上記の記事はマッチングアプリの中での音楽好きがどんな音楽を聴いているか、100人くらいの雑な集計ですけど、一般でマックス音楽的に幅広く豊かで偏見なく聴いている人でも嵐とPerfumeとワンオク、とかそんな感じなんですよもはや。
考えられるのは「邦ロックが一般大衆に聞かれていない」か「邦ロックが恋人探しのアイコンとして機能していない」な訳ですけど、「非日常的体験」を一瞬でも売りにしてしまったロックフェスは親和性高くないわけ無いだろうと、そう思う次第です。
disに聞こえそうですけど、蛸壺化とそれに対するカウンター的なメジャー優位、でもその蛸壺1つひとつで幕張メッセ埋めれたりオリコン1位取れてる世の中ってのは、僕は悪く無いと思うんです。
ただし、ここを認識しないとぼんやりラインナップ並べても「知らない人をわざわざ予習するフェス参加者」がどれだけ希少か、ってのを読み違えるミュージシャンや業界関係者が多すぎる、ってのは1キモオタからの感想です。
その点「京都大作戦」がメロコア業界という蛸壺に与えてる功績ってものすごいと思うんですよ。あのフェスがあることで10-FEETやホルモンから入った歴の浅いメロコア好きが、ハイスタやブラフマンの様なレジェンド級へのリスペクトやAIR JAM等の歴史を知れつつ、地元の仲間や後輩などメロコアやパンクロックの色んなところを確実に伝えられてるんだと思うんです。
これが、例えばロックならKANA-BOON→アジカンまでは行けてもアジカン→Weezerとかアジカン→ユニコーンとかにファンを全然導けて無いと。
(ついでいうと、先ほどの記事でも調べた感じ蛸壺化すると殆どの人は中だけにこもりがちなんですけど、京都大作戦は、RHYMESTERとかドロスとかくるりとかSCOOBIE DOとかも呼んでるんすよね。その辺りほんと抜かりないと思う。)
これによって起こるさらなる問題は、フェスの大多数は動員力で持ってステージ配分決めるので、メインから外れる中堅〜ベテランに対して足切りが進みすぎてるのが可能性とかメンツの多様性を奪ってることで、世代的にも、テナーやACIDMANあたりをブームが落ち着いたバンドって処理させるのは早すぎる気がするんですが、ここもロックフェス偏重の弊害として語られていいんじゃないですかね。
フォロワーさんとの事前会談でも考えてたのは、要はフェスを行う側、出る側の「ガイドしなさ過ぎ」「フェスを文化や文脈を作る気なさ過ぎ」ってところ集約された気がするのです。こういうことを意識的にして行かないと行けないんじゃ無いの?と。
いやそんなことする必要ないじゃない、なんで?って意見ももちろんありだと思う。この辺はもっと意見聞きたいし見聞広めたい。
・黎明期のフェスは何もないところから刹那的にブッキングしていたと思う。シーンを写す鏡だとすれば、ステージを大きくしながら続けて出演することでしか物語を作れなかった。
○今は「そのフェスをする理由」が問われてるんだと思う。横の繋がり(同じ世代)や縦の繋がり(同ジャンルの先輩後輩)、地域性という繋がりは重要だと思う。なぜなら、そうすることで一日単位で楽しむ指針になる。知らなかったアーティストを聴くきっかけになるはずだと。
本番だとうっかり失念したんですけど、例えば横の繋がりならサカナ電話ズオーガの三組にandymoriとかも参加した「version21.1」ってイベントがあったりとか、あと縦なら京都大作戦なんかまさにそれですよね。
そうやって視野が向く方向をもっともっと広げていくべきだと。そう思うわけです。
【備考】
・「僕がサカナクション知った時点ではもう北海道から東京に拠点移してたので地元なのに見られんかったんです、それが初年度のジョインアライブでやっと見れたんです」って話をしてる時の一郎さんの嬉しそうな笑顔を僕は一生忘れません。それだけです。
・なんやかんや言いつつ、あとこの企画に参加したからというわけではないですけど、ビバラで鹿野さんがやってることは僕の主張とかなりあってる部分があって、改めて面白いなと思います。